リーマンジャズドラマーのブログ

サラリーマン兼ジャズドラマーの思うところ

エフェクト系シンバルを買ってみた

最近の新しい系ジャズというか、ドラムはシンバルメーカーもたくさんあるしドラムセットも多くの選択肢があるし、パーカッションと合わせたような使い方も多く見られるし、ここ10年ぐらいでようやくトラディショナルなものが変化してきたようなところがある。

 

シンバルに関して言うと、35年前はジルジャン、パイステしかなかった(自分記憶)。

 

その後セイビアンというメーカーが出てきて、イスタンブールというトルコで製造するハンドメイドオンリーのメーカーが出てきて、ボスフォラス、他いろいろ活況に。

ダーク系でジャズに合うものから、そのうちエフェクト系という穴の開いたものも登場した。カシャっというようなサウンドが特徴だ。

 

先日の日曜にツイッターを見ていると大手楽器やのドラム専門店が1日限りのバーゲンとして、長蛇の列に整理券を配っている写真があった。店のサイトを見ると、中古品やドラムヘッドなどかなり安価に出ていた。

 

整理券もらって行くほどのものでもないかと、夕方閉店も近づくときにアキバまで1時間かけて行った。

既に客は少なく、ネットに出ていたエフェクトシンバル3枚はそのまま残っていた。

スティックを持参したので、試奏させてもらい、カリスマ定員とかいう人にエフェクトシンバルの歴史を少し確認して、定価も確認し(笑)、ハイハットとクラッシュシンバルを買った。

 

 

パイステは通常価格が高いが、エフェクトシンバルは後出ししたメーカーだから、このシリーズは元々安価とのこと。

しかし、自分自身がパイステを買うとになるとは考えてもなかったなぁ。

 

今度、練習スタジオで試して、ジャズクラブでも使ってやろうと思っている。

自作CDがオンエア?

すっかり忘れていた。

 

35年ぐらい前に、アマチュアジャムセッションでいつも遊んでいた当時学生の上手いピアニストと昨年9月に久々に会ったとき、自分がもっているラジオ番組でこのCDかけるよ、と言ってたのだ。

 

彼はプロのピアニストとして関西で活躍中なのだが、たぶんだいぶ前から1時間枠のラジオのパーソナリティ仕事もやっている。

 

著作権とは何か、を半分皮肉ネタにしたようなCDでもあるので、公共の電波に乗せて大丈夫かいなと思うものの、プロデューサーとそこは会話するからと言ってたので、落ち着くところになったのでしょう。

 

まあそれにしても、自分が手がけたものがラジオ波で流れるとは考えたこともなかったので、面白いよねぇ。

 

私は自分のCD含めて音楽活動をマネタイズのために積極的に動くつもりもないし、その気もさらさらないし、そもそもそれに力を注ぎ出した瞬間に創作物は何かに媚びるようになり迎合するようになると考えるので論外なのだが、紹介いただけることは素直に嬉しい。

 

とある有名な芸術家兼大学の先生の授業で、「学内に捨ててあるものを拾ってきて、それをいかにも考え抜いた芸術作品であるとしてプレゼンしなさい」というのがあったらしい。で、芸術とはそんなもんだと。

何かの作品があったとして、そのモノと、それを説明するコンテキストみたいなものが評論家(画廊やプロデューサーということもある)が評して、その言葉を読んで聞いて「これはたいそうなものだ。価値あるものだ」と大衆が信じて、結果そこに金銭的価値が発生していくのがたいていの流れだ。

 

ラジオで流れました~!

 

そう言えば、先般アルバムを出したジャズマンが自身のアルバムの紹介の際にそれを言っていた。

ラジオも雑誌も、何らかのメディアに載るということは、それ自体が評価されたことにも繋がり…、ってことだ。

 

まあそういうことだが、世はネット時代なのでそこでソースを勝手に観て聴いて自分のみで判断しろ、ってのが出来るような環境になっているので、評価されようとするより勝手にしろ、と創作するのがよいように思うわけであります。

 

(勝手な創作例)

コンサートスタッフをやってみて

ということで、何がということか意味はないが、ドイツから帰国した今度メジャージャズレーベルからリーダーアルバム出すドラマーが日本でのコンサートのためにドラムを貸してくれということで、二つ返事で手伝ってきた。

 

ボサノバ有名日本人ギタリストとピアニストとドラマーという変則トリオ。

最初、ローソンチケットでチケットを買っていたのだが、ドラム貸す=スタッフとして入ることになるので、チケットは昼の仕事仲間でこの手の音楽が好きな人にあげた。

 

人のコンサートだが、ドラムを持っていかないとアカンということは風邪ひけないな、と気合を入れて当日を迎えた。

心配性でもあるので、持っている手持ちのスタンドは超軽量なので、いつも行くドラムショップでハードウェアだけ借りることに。

 

コンサートは100名キャパで満席。

ギターのみアンプ通して、アコースティックでほどよい音圧が出るすごくいいサウンドだった。ピアノはスタインウェイのでかいグランド。

ドラムは私の少し前の年代のグレッチなので、音の相性はよかった。

リハから全行程演奏者とブッキングマネージャーやらスタッフと過ごして、オーディエンスも静かに聴いて大満足。

 

 

さて、打ち上げ。

 

 

集った方々は演奏者と日本のジャズレーベルを主催しているブッキングマネージャー、ジャズライター、ギター工房の兄ちゃん、他に関係者もろもろ。

ヨーロッパのレーベルとそれを日本で取り扱う代理店レーベルの話、ネット時代でのマーケティングで混乱している話、どうやって世に売り込んでいくかの作戦の話、メディアへの露出とそれをやっていく役割分担、レコ発ライブと合わないCDリリースタイミングをどう訂正するかの誰にどう何を言わせての動き方の話、、、

 

一言で言うと、業界の話ってことになるのか。。。

 

でも、、むむむ…、なにか違和感が。。。

 

 

音楽を創り上げるのはリーダーであるミュージシャンの純粋な意志があってそこへ向かうのだが、そこから先は完全に資本主義社会の動き方になってしまい、ミュージシャン含めてフリーな方々なのに話を聞いていると会社員の社内での会話と何も変わらないという感じがどんどんしてきて、何だか妙な気分になったのだ。

 

食うためにはどう動くべきか、どう有利に機会を利用していくかになるのだが、ミュージシャンのようなフリーランスの方々も資本主義社会の一員となって儲けていく=売れていくために考えて活動していく様は会社員がどう営業して成績伸ばそうかという作戦会議と瓜二つであり、結局そこにみなが巻き込まれていく商業主義と言うか、そうせざるを得ない構造について少し考えてしまった。

 

確かにそうやって売れていく過程の作戦は考えて動いて結果が出たり出なかったり含めて面白いのは理解する。

でも、その面白さは会社員として営業して自社の製品やサービスを作戦考えて動いて結果が出たり出なかったりというプロセスとまったく同じなのだ。

 

つまり、本来の自身で創作をする芸術活動の「血湧き肉躍る」と、売れていく過程の「血湧き肉躍る」は別物なのだ。

芸術活動は自身で考えたことを勝手にやる。評価されようがされまいが関係ない。勝手にやりたいからやり、何かを世に問う。

売れていく活動は売れていくために多くの関係者の意見も聞き、自身が思ってない評価もされ、自分の意志と違うところに動かざるを得なくなったり、売れるために意図せぬ修正を飲まねばならないことがほとんどだろう。

そうなると純粋な芸術ではなくなり、どこか誰かに合わせたり何かに迎合したりすることを避けるのはほぼ不可能かもしれない。

 

「芸術は無条件、無償でないといけない」

これを生涯徹した岡本太郎をまた思い出し、芸術活動の「血湧き肉躍る」と、売れていく過程の「血湧き肉躍る」を同じものでやることと別のものでやることの果たしてどちらが純粋なのかを考えてしまうのでした。

ジャズマンとテクノロジー

ジャズマンは楽器テクノロジーにはほとんどの人が疎い。


テクノロジーに全て疎いアナログ人間というわけではなく、譜面テクノロジーにはジャズマンはかなり強い。
数々のスタンダードを分厚い譜面をメンバー分用意いなくてよいスマホタブレットの譜面アプリはみな飛びついた。
年配のアマチュア、セミプロジャズミュージシャンもみな譜面アプリは必須となっている。ただしドラマー以外w


コード進行と、それに乗せて楽器でソロをとることに最大の喜びを見出す方々にとっては譜面はもっとも重要視するツールである。
逆にプロで譜面を一切見ずに暗譜が基本だという人は譜面テクノロジーは関係ない。

ただし、譜面テクノロジーには新しい音楽はない。新しいサウンドもない。
懐かしさと楽器演奏対応力だ。
いい音楽がないと言ってるわけではないよ。美しいサウンドと素晴らしい旋律やタイミングなどはある。
グッと来るものもありオーディエンスも喜ぶが、新しい音はない。

楽器というものはテクノロジーとともに進化していく。
現在だともちろんコンピューターでありデジタルだ。

古きよきジャズ愛好家と会話するとデジタルの新しい音はダメだよ。アナログこそ、って言うだろう。

でもピアノが発明された時も、オーケストラで各楽器が単音一つづつ音を繋ぎ合わせるのに、一遍に和音を出す楽器は技術的にすごいかもしれないがダメだろう、って年配連中は言ってたハズだ。
そう、我々は同じ轡を踏むわけだ。
「今時の若い連中はテクノロジーを使って云々、けしからん。ありゃダメだ、味がない…」と。

新製品群のレビューを掲載する雑誌のウェブサイトがある。
もはや楽器なのか何かもわからないものも多い。面白いよ…。
新しい音はこういうのから生まれることが多いハズだ。

 

今時の演奏スタイルはこれなんでしょう。

 

スイングジャズが不良音楽で新しかったとき、若者がこぞって踊っていたが、それは音楽が新しい音であり、刺激だったから。

現代版はこういうこと↑になっている、とそれだけの話でしょう。若者が大挙して集まり踊っているよ。

 

繰り返して言おう。

 

こんなのは楽器ではない!

 

と言う人は多いと思うけど、弦楽器時代にピアノが発明されたとき、押せば安定した音階が鳴り、一人の奏者で和音まで出せるピアノという新しい機械のような楽器は「こんなのは楽器ではない!」、「味がまったくない」と言われてたハズなのだ。

その理屈を理解して、新しいサウンドも聴き、そのよさも自分なりに解釈して古い楽器演奏に戻ると、新しい解釈が出るかもしれないよ。

 

ちなみに最近の若手ジャズドラマーで新しいセンスを出す方々は、DJやクラブ音楽、ヒップホップも乗り越えてきているからそうなるわけだ。

だとすると、やはりジャズマンも新しい楽器テクノロジーには触れておかないと伝統芸能の範囲から脱しないことになるのでは?

苦手なお正月

なんか、大晦日から正月にかけての切り替わりの雰囲気が好きになれない。

 

紅白がわーっと終わった後の番組「ゆく年くる年」の静寂から「ゴーン」のギャップは大好きなのだが、年末のお笑い番組、正月のお笑い番組箱根駅伝とまあ毎年こうも変化ない年の切り替わりに対して疑問をもつわけだ。

 

この感じる雰囲気は多分にテレビの影響だろう。

 

年が明けたといってなんか年の瀬の気分から新たな気分に切り替わってる感じは、外部で誰かが構成して作っていく気分に自身が多大な影響を受動的に受けているにすぎないのだと思う。

 

というひねくれた感じから少し脱すべき、大晦日の夕方にスタジオ入り音とビデオを録り、夜に紅白とダウンタウンのTVが鳴っているところ、ヘッドホンしながら動画編集をしてみた。少し前に思いついたサンバリズムでフリーを演してみる試みだw

 

 

大晦日から年明けにかけてアップロードしたのだが、確かに普段の日常と同じような過ごし方をわざとしてみると、年越しの雰囲気は薄まった。長女が帰省してこず、末っ子が受験のため大晦日も元旦も塾だったことも手伝い、少しは正月の雰囲気を脱してみれたかもしれない。年賀状は数年前に勝手に廃止しており、ピーク時100枚近かったものが数枚来るのみとなり、それによる影響はすでにない。

 

そんなこんなでまた昼の仕事と夜のライブ生活が繰り返されていくのだが、それでよいのかというのはずっと頭の中にあり、どう変化をつけて新たなものにチャレンジしていくのかは日々考えることにしよう。

よいお年を!

12月は27日が最終のライブだった。

 

今年は横浜高層階ホテルラウンジの仕事がクビになり、三軒茶屋高層階区民ラウンジのノーギャラライブが場所管理者変更にともない廃止になり、多少ライブのペースが落ちて、ある意味ホッとした年でもあった。

 

昼の仕事の都合で数回ライブをキャンセルしたものの、年間のライブ数は79回だった。

たぶん10個ぐらいのバンドがあり、毎月定期的に演奏するもの、2ヶ月に1度のもの、3ヵ月に1度のもの、年に2度ほど呼ばれるものがある。バンド数をきちんと数えたりはしない。

 

どれだけのライブがクリエイティブ度が高いかは疑問が残るところだが、常に惰性になっているのではないかと自分自身へ疑問は投げかけている。かなり怪しい。。。

 

たぶんコンピューターシンセ(シーケンサー)やネット素材を組み合わせてジャズらしきものを創ろうとしているときが私にとっては最も創造的なのだとも思う。創作活動中に想定外のサウンドが出て、それが音楽脳を刺激する。

 

もちろんライブ演奏でも刺激的なところはあるのだが、ジャズという限定された世界でのルールに基づいて表現をしているような狭い感覚が強い。共演者の頭の中は知らないが、新たな表現を試みようとするミュージシャン、ソロ中に自分の感覚をフレッシュに毎回入れこむミュージシャン、ジャズジャイアンツの心地よいかっこよいところをトレースしようとするミュージシャン、とバラバラな感覚が一堂に会して共通フォーマットのジャズを演奏しているわけだ。

そんなことを、よく想う1年だったかもしれない。

 

その1年を振り返ると、何か新しいことをやってきたか回想できるが、正月になったから今年は何かしようと思うのは避けたいと考えている。

でも、なんとなく考えてしまうのだが本当はそれではダメで、それこそ毎日何かをしようと新たな気持ちにならないといけないハズである。

だって、「今年は…」って宣言すると、次に何か宣言して新たな気持ちになるのは1年に1度しか来ないってことになり、それでは新たなことを具現化するのは少ししか無理ってことになってしまうからねぇ(笑)。

 

今年はCDを製作してみたのは、いろいろ考えるきっかけとなりよかったと思う。このブログも始めてみたのは今年だ。

さて、来年は何をしようか。

 

って考えたらアカンっちゅうねん!

 

ということで、今年ラストライブの1曲を惰性的に(笑)ドラム解説したので、それを貼って今年ラストのブログとしておきましょう。

(ブログも飽きたなぁw)

 

 

では、よいお年を!(*^^)v

クリスマスソング

この時期になると多くのジャズクラブではバンドがライブ中にクリスマス関連ソングを演奏する。

 

なんでやねん…

 

ソロの途中に、ミミミーミミミーミソドーレミーとこっそりと、でもわかるように入れる輩も多い。

 

確かにメルトーメのクリスマスソングとかはメロディが美しく。まあ口ずさみたくなる。

なんとなくクリスマスの気分になるような感じがしないでもない。

 

夜、外気は冷たく、スノーマンみたいな人形や電飾ツリーがあちこちで見れる。

 

ああ、透明感あるこの感じ、、いい雰囲気だなぁ。。。

 

 

 

ホントにそうなのか? そういう街の気分を盲目的に受け入れてしまっていないか?

 

演奏するミュージシャンは、何の疑問もなく盲目的にクリスマスソングを演奏しようと思っていないか?

オーディエンスはそれを期待して聴きに来ていないか?

 

これを迎合と言わず何と言う。。。

 

 

大阪時代、高校国語教師を辞めて当時まだマイナーだったフリーターを選択したフリージャズしか演奏しない強烈なテナー奏者が言った。

 

「お前ら日本人やったら、盆と正月を祝えっ!」