リーマンジャズドラマーのブログ

サラリーマン兼ジャズドラマーの思うところ

音楽で有名になりたい、会社で出世したい、、、その制約を理解しているかしら?

昨夜、20歳代若手ミュージシャン(ロック、ポップスシーンかな)の爆音ライブを観て来た。いい感じのサウンドだった。みんな有名になることを目指して疑わない若者たちだ。

 

有名になるとか、企業なりで出世するとかというのは、世の親みんなが子供に頑張りなさいと言っていることかもしれない。

努力したり才能あれば、有名になったり企業組織で出世していったりする。音楽では曲が売れる、バンドが売れるということだろう。企業だと上場企業の役員になることもそうだろう。

 

人さまから見れば、そこに行きついた人は羨ましいと見られるかもしれない。

ところが、本当に本人にとって本望だろうか、というのは違う見方があると最近よく思う。

 

一見自由に見えるミュージシャンだが、社会の構図の中で食っているということを考えると組織には属してなくとも、大きく見て組織構造の中で位置づけられるということになる。

売れた曲に対して取り巻く周辺や社会的要望(ファンが求めている)から、本人がそこは通り過ぎていて演奏したくないと思っても、ライブではラストに演奏しなければならなくなり、オーディエンスもそれなしで終わるなんてありえない状態となる。

 

売れたアーティストの苦悩を見ていくと、多くがそういう部分で自分が自分でなくなり生かされていく過去の自分や求められる姿を演じなければならない不自由さに極度に悩んでいたりすることがわかる。

全然有名でなくとも、その人に求められる音楽を求められる場所で求められるように演奏しなければならないのが大半な姿だろう。それが社会的責任にも位置づけられてしまうからだ。勝手にやりだすと、即座におまんま食いっぱげとなっていくわけだ。

 

企業で出世しても同じだ。いっしょにいたくない方々と会食せざるを得ない場合も多々ある。社会構造の中で裁量は与えられることで「自由」に考えて判断くだす場面は多いが、同時に「責任」が伴うので本当の自己が想う自由からは逸脱することが多いだろう。

そうやって本心ではないところで演技をして暮らしていくことになる。

 

世の中で言う成功に向かっていくと、これら強烈な制約が同時にかかってくる。

ミュージシャンでも有名タレントになると電車も乗れないし、東証一部上場企業の大手社長も同様だ。社会に位置づけられるので、危険なリスクは避けなければならなくなるのだ。

もし、電車好きの人だったら、最悪な制約とも言える(笑)。

 

ここから脱却するために本人がやるべきこととして、一つ芸術があるとも考える。芸術の中で社会的制約からの脱却やその制約をしているものの社会通念みたいなもののおかしさを訴えることが出来る。それをやらないとバランス崩れるようにも思うが、そう思っている人は常にそんなことを考えているセンシティブな人だけなのかもしれないので、これは戯言かもしれない。…が、ここを日ごろ考えて悩む人にとっては真剣な話だとも思う。

 

有名になったり出世したりすると「生かされる」場面が増えてしまい、=気を付けておかないと自由はほぼなくなっている状態に陥るハズなのですよ、みなさん。