リーマンジャズドラマーのブログ

サラリーマン兼ジャズドラマーの思うところ

いろんなところに蔓延る家元制度のノリ

世界の先進国として日本社会は欧米同様に発展しているが、社会システムは未だ封建的な文化というかノリを脈々と継承している。文壇や画壇みたいな権威とヒエラルキー、そこにお金が絡む仕組みはいろんなところで見受けられる。

お師匠さん、と慕って芸事の流派のような仲間内が出来ていき、違うお師匠さんについている人たちとは分かれて活動していく流れだ。家元制度である。

 

お師匠さんは確かに優れているから師匠なんだけど、それと芸術は関係ない。芸事は師匠が必要である。伝統芸能を継承していくためには誰かに付かねばならない。

芸術は個人的感覚の中で自身が影響され吸収してきた様々なものを咀嚼して新しい表現を提示する活動なので、師匠につくと言ってしまった時点で失格なのだ。失格というのは芸術家の失格であり伝統芸能表現者は師匠に付く必要があるということですよ。

 

技術を習得する目的で一時的に先生に付くのはありかもしれない。ジャズだとバークリーなんかで音楽理論を学ぶようなことはそれに当たる。

 

画壇なんかは家元制度的に、どこどこの展覧会に出すというのを師匠が決めて、そろそろ5年やってきたからあそこに出してみては、というような動きがある。展覧会での賞の選考委員はその師匠がやってたりする。こうなってくると特定の人に慕ってその人の古い権威にぶらさがり、賞をもらって上に上がっていく何のこっちゃかわからんヒエラルキーに位置するという活動に成下がるわけだ。

 

フラダンスみたいなものも、同じようなノリが見られる。

ジャズもとくにボーカル教室はその臭いがしないでもない。

「まだセッションに行ってはいけません」

「この楽譜は決してコピーしてはいけません」

「私が開催するセッションで歌わせてあげるので来なさい」

セッションはホストバンドが来た人数のミュージックチャージ(参加チャージ)からギャラを分配するので、これが横行すると単なる集金ツールとなるわけだ。そういうセッションはレベルが酷いよ。レベルというのは音楽的技術的ではなく、気持ち的意気込み的という意味で。

 

まあ、人に指示なんかされて新たな表現など出来るわけないのです。

師匠を作ってしまった瞬間新たな表現は大きな制約を受けるわけです。

 

だって、師匠に「お前その表現はないだろ」と言われると人間関係含めて考えると引っ込めざるを得ないわけですから。強行すると「破門だぁっ!」で、その世界の社会システムに位置してると干されておまんま食いっぱげとなるのです(笑)。

その点サラリーマン兼ミュージシャンはよくも悪くもバッシング受けてもまったく痛くないので、好き勝手な表現をトライしやすい環境とも言える。

 

しかし、みな意識していないかもしれないが、日本人に脈々と続くどこか封建的なものを当たり前と思う考えがこういう家元制度みたいなものが出来ていく文化背景なのでしょうね。